天才打者『ロビンソン・カノ』の真実|美しすぎるスイングの正体

シアトル・マリナーズ

ドミニカ共和国出身のロビンソン・カノは、メジャーリーグ屈指の二塁手として一世を風靡した選手である。

ニューヨーク・ヤンキースの中心選手として活躍し、世界一を経験した後にシアトル・マリナーズやニューヨーク・メッツなど複数の球団でプレーし、その後はメキシコリーグのディアブロス・ロホス・デル・メヒコに活躍の場を移している。

彼の滑らかなバッティングフォームと強肩は多くの野球ファンを魅了したが、一方で薬物違反による出場停止処分を受けるなど、波乱万丈なキャリアでもあった。

本記事では、カノの幼少期から学生時代、メジャーリーグでの華やかな経歴、さらにはMLB離脱後の活動や人間的な側面までを丁寧に追いかけて行く。

プレースタイル

カノといえば左打席から放たれる滑らかなスイングが特徴的。若い頃から「コーナー外野手のような打力を持つ二塁手」と評された彼は、鋭いレベルスイングでラインドライブを飛ばし、長打と高打率を両立させた。

その姿は力みがなく「低エネルギーに見える」と批判されることもあったが、実際には連続試合出場と高い生産性を両立させるタフさを持ち合わせている。

バットコントロールに優れているため三振が少なく、左中間や右中間へ流し打ちする柔軟性も魅力。

守備ではしなやかな身のこなしと強肩を兼ね備え、深い位置からのジャンピングスローやグラブトスなど華麗なプレーで観客を沸かせた。

BR Bullpenは「簡単そうに見える守備とレベルスイング、頑丈な体格により長く活躍できると思われた」と評している。一方で打球を追う際に全力疾走を怠る姿勢が批判されることもあったが、緩やかなフォームは彼のリズムや怪我防止のためとも言われている。

カノは中距離打者として毎年多くの二塁打を放ち、2005年から2017年まで13年連続で30本以上の二塁打を記録するアメリカンリーグ記録を保持している。この間に20本塁打以上のシーズンが8度、30本塁打以上が2度あり、長打力も兼ね備えていたことが分かる。

2016年には自己最多の39本塁打を放ち、二塁手としてあと2本でリーグ記録に並ぶところまで迫った。

記録と主な実績

カノのキャリアはタイトルと記録に彩られている。ヤンキース時代の2009年にワールドシリーズ優勝を経験し、その年を含め2010~2013年の4年間はシルバースラッガー賞を連続受賞した。

守備でも2010年と2012年にゴールドグラブ賞を獲得し、攻守両面でリーグを代表する二塁手となった。

オールスターゲームには8度選出され、2017年の試合では延長10回に決勝本塁打を放ちMVPを受賞している。

長打に加えて二塁打の量産ぶりも特筆すべきで、2015年には通算2,000安打を史上14人目となる11シーズン目で達成。同年8月25日に30本目の二塁打を放ち、キャリアの最初から11年連続で30本以上の二塁打を記録した史上初の選手となっている。

アメリカンリーグの二塁手としては通算266本塁打のリーグ記録を持ち 、20本塁打以上のシーズンが8回、100打点以上が4回、100得点以上が5回に達した。打率でもデビューから長く.300前後を維持し、キャリア通算打率は.302に上る。

国際舞台でも活躍し、2013年のワールド・ベースボール・クラシックでは打率.469、25塁打、15安打の大暴れで無敗優勝に導き大会史上初の野手MVPに輝いた。

8試合で6打点6得点と打線の中心を担い、各ラウンドのMVPも独占している。また2011年のホームランダービーでは父ホセが投手を務め、決勝で12本塁打を放って優勝した。

経歴

幼少時代

ロビンソン・ホセ・カノ・メルセデスは1982年10月22日、ドミニカ共和国のサン・ペドロ・デ・マコリスで生まれた。彼は野球の伝説的な黒人メジャーリーガージャッキー・ロビンソンにちなんで「ロビンソン」と名付けられたという。

父親のホセ・カノは1989年にヒューストン・アストロズで6試合だけ登板した元投手であり、幼いロビンソンは父親の影響で自然と野球に親しんでいた。

幼い頃のエピソードとして、父ホセが出生届を提出する際に母クラリベルが別の名前を希望していたにもかかわらずジャッキーへの敬意から「ロビンソン」と記入したという逸話がある。

父はジャッキーを敬愛しており、生後数日の息子を抱いて球場に連れて行きチームメイトに紹介したと振り返っている。歩けるようになると試合にも同行させ、幼少期から野球が生活の中心になっていた。

少年時代はドミニカ共和国だけでなく米ニュージャージー州でも過ごし、7年生から9年生までの3年間は母とともにニューアーク市の学校に通った。

父は長期遠征が多く電話でのやり取りが中心だったが、母は勉強と練習の両立をサポートし、彼が野球に集中できるよう導いてくれたと語っている。父子の関係は深く、今でも父からスイングのチェックや助言を受けるという。

その後、再びサン・ペドロ・デ・マコリスに戻り、高校では野球だけでなくバスケットボールにも取り組み、運動神経の高さを発揮した。

学生時代・マイナーリーグ時代

高校卒業後の2001年、カノはニューヨーク・ヤンキースとアマチュア・フリーエージェント契約を結び、10万ドルを超える契約金を得る。

プロ入り1年目はルーキーリーグのガルフ・コースト・ヤンキースで57試合に出場し、打率.230、14本の二塁打、3本塁打、34打点を記録。同年後半には短期A級のスタテンアイランド・ヤンキースでも2試合に出場し、プロ生活に慣れて行く。

2002年はA級グリーンズボロ・バッツに昇格し、113試合で打率.276、20二塁打、9三塁打、14本塁打、66打点と長打力も発揮した。短期A級スタテンアイランドでも22試合に出場し、同じく打率.276を残している。

2003年はハイAクラスのタンパ・ヤンキースで90試合に出場して打率.276、16二塁打、5本塁打、50打点を記録し 、シーズン途中にAAのトレントン・サンダーへ昇格すると46試合で打率.280、9二塁打、1本塁打、13打点を積み重ねた。この年はオールスター・フューチャーズゲームにも選出され、将来の主力候補として注目を集める。

2004年はAAトレントンで74試合に出場し、打率.301、20二塁打、8三塁打、7本塁打、44打点とさらなる成長を見せた。途中からAAAコロンバス・クリッパーズへ昇格すると、61試合で打率.259ながら9二塁打、2三塁打、6本塁打、30打点を記録し 、ヤンキース内部でも将来の正二塁手候補と見なされる。

この年のオフにはアレックス・ロドリゲスを巡る大型トレード交渉の中で交換要員として名前が挙がったが、結局残留した。

2005年はコロンバスで24試合に出場し、打率.333、8二塁打、3三塁打、4本塁打、24打点と打ちまくり、5月3日にヤンキースのトップチームに昇格。この時点で学生の肩書はなく、プロ野球選手として本格的なキャリアを歩み始める。

プロ時代(年度別)

2005年 – ルーキーイヤー

メジャー初昇格を果たしたカノは、ケガで不振だったトニー・ウォマックに代わって二塁のレギュラーを任される。デビュー2日後の5月5日には野茂英雄から初ヒットを記録し、その年中に初満塁本塁打も放つ。

シーズンを通して打率.297、14本塁打、62打点を残し、新人王投票ではヒューストン・ストリートに次ぐ2位となった。

若手ながらスムーズなスイングが評価され、ジョー・トーリ監督からレジェンドのロッド・カルーのようだと評されたほどだった。

2006年 – 初のオールスター選出

翌2006年、カノは序盤から打率や二塁打、打点でリーグトップに立つ活躍を見せ、球宴に選出される。しかし6月にハムストリングを痛めて故障者リスト入りし、オールスター出場は果たせなかった。

それでも復帰後は打率.342、41二塁打、78打点と素晴らしい成績で 、9月には月間MVPにも輝く。

2007年 – 背番号変更と安定した成績

2007年には背番号を24番に変更。これは、偉大な先達ジャッキー・ロビンソンの背番号42を逆にした数字であり、彼への敬意を表している。

シーズン序盤は打率が.249まで落ちるなど不振に陥ったが、夏場に調子を上げて打率.300でシーズンを終える。

9月20日には旧ヤンキー・スタジアム最後の試合でサヨナラ安打を放ち、翌日の最終戦では最後の打点を記録するなど、歴史的な舞台で存在感を示した。

2008年 – スランプと復調

2008年は4月終了時点で打率.151、わずか7打点と極度の不振に苦しんだが、その後は持ち前の打撃センスを取り戻して8月まで打率.300前後をキープした。前年同様にほぼ全試合に出場し、ヤンキー・スタジアム最後のシーズンを締めくくった。

なお、この年の開幕前にカノはヤンキースと4年総額3000万ドルの契約延長(5年目1300万ドル、6年目1400万ドルの球団オプション付き)を結び、アービトレーションを経ずに若手スターとして長期契約を確保した。

しかし、3年連続で打率3割超・OPS+117を記録していた25歳のカノは大きな期待を背負いながらも契約直後にキャリア初の大スランプに見舞われ、最終成績は打率.271、OPS+81と大幅に落ち込んだ。

この不振はヤンキースが1993年以来初めてポストシーズン進出を逃す要因のひとつになったとも言われている。

2009年 – ワールドシリーズ優勝

2009年、カノは打率.320、204安打、25本塁打、85打点とキャリアハイの成績を残す。彼と遊撃手デレク・ジーターがそろって200本安打を達成し、メジャーリーグ史上初めて同一チームの二遊間が揃って200本安打を記録する快挙となった。

また、8月28日のホワイトソックス戦では自身初のサヨナラ本塁打を放つ。ポストシーズンではニューヨーク・ヤンキースがワールドシリーズを制覇し、カノは最終戦でシェーン・ビクトリーノをアウトにして最後のアウトを記録した。

2010年 – ゴールドグラブとシルバースラッガー

マツイ秀喜の退団に伴い打順が5番に固定された2010年、カノは4月の月間MVPに輝き、オールスターゲームではファン投票で先発二塁手に選出された。

シーズンでは200安打、29本塁打、109打点、打率.319という攻守両面で安定した成績を残し、二塁手としてはヤンキースでは1960年代以来となるゴールドグラブ賞と、バットの優秀選手に贈られるシルバースラッガー賞を同時受賞した。

2011年 – ホームランダービー優勝

2011年のカノは守備のミスが増えたが、それでも打撃は好調で188安打、28本塁打、キャリア最高の118打点を記録した。

父ホセが投手を務めたホームランダービーでは決勝で12本塁打を放ち優勝し、ファンを沸かせる。決勝ラウンドで最後の一発がスタンドに消えると、親子は内野で抱き合い、長年の努力が結実した瞬間を共有した。

カノはインタビューで「いちばん素晴らしいのはスイングではなく、BPを投げてくれた父だ」と述べ、父から野球の基礎と精神を教わったことに感謝している。ポストシーズンではディビジョンシリーズ初戦でグランドスラムを放った。

2012年 – 長打増とポストシーズンの不振

2012年は4月こそ本塁打が1本にとどまったが、5月に7本、6月には自己最多の11本と長打力が爆発する。

7月にはキャリア最長の23試合連続安打を記録し、シーズン最終盤には10試合で24安打・14打点の猛攻を見せた。

最終的に打率.313、33本塁打、94打点を記録したものの、ポストシーズンでは長いスランプに陥り、8試合で打率.075と振るなかった。

2013年 – ヤンキース最後の年

シーズン序盤に自身初となる遊撃手での出場を経験しながら、前半戦を打率.302、21本塁打、65打点で折り返した。

ホームランダービーではアメリカンリーグのキャプテンを務めたが、試合では右太ももの打撲で途中退場してしまう。

8月20日には通算200本塁打を達成し 、最終的に打率.314、27本塁打、107打点と安定した成績を残す。

この年は国際舞台でも輝き、3月開催のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にドミニカ共和国代表として参加。大会で打率.469と絶好調で、チームは無敗で優勝し、決勝ではプエルトリコを3対0で下して世界一に輝く。カノ自身が大会MVPに選ばれ、母国に初めてのWBCタイトルをもたらした。

2014年 – マリナーズへの大型移籍

オフに10年総額2億4千万ドルという超大型契約でシアトル・マリナーズへ移籍する。この契約はアルバート・プホルスらの巨額契約に並ぶ史上3番目の規模で、ヤンキースが提示した7年約1億7千万ドルの残留オファーよりも大幅に上回る条件だった。

マリナーズは長年得点力不足に悩んでおり、球団を代表するスター獲得に踏み切ったという。シアトルはフェンスが遠く投手有利と言われるセーフコ・フィールドを本拠地とするため本塁打数は減少したが、カノはOPS+143とヤンキース時代と遜色ない打撃指標を維持し、移籍初年度から安定した働きを見せた。

開幕戦で2安打デビューし、シーズン途中の7月にはオールスター戦のスターティングメンバーとして選出された。

打率.314、14本塁打、82打点と高打率を維持したが、夏場に腸内寄生虫による体調不良に悩まされた。シーズン終了後には日本遠征に参加し、右足趾骨折のため数週間の離脱を余儀なくされる。

2015年 – 不調と手術

2015年は前年の寄生虫による治療の副作用で逆流性食道炎を患い、成績が低迷する。開幕から56試合で打率.242、2本塁打、19打点にとどまり、ファンやメディアから不安の声も上がった。

しかし6月以降は調子を上げ、7月18日のヤンキー・スタジアムでの古巣戦ではマイケル・ピネダから2本の2ラン本塁打を放つなど存在感を示す。

さらに8月25日に30本目の二塁打を放ち、キャリア開始から11年連続で30本以上の二塁打を記録した史上初の選手となった。9月23日には通算2000本安打も達成し 、後半戦だけで打率.330をマークして最終的に打率.287、21本塁打、79打点に復調した 。

オフにはスポーツヘルニアの手術を受けている。

2016年 – 250号到達とオールスター

2016年5月7日、シカゴ・ホワイトソックス戦で通算250本塁打に到達し、二塁手としてジョー・ゴードンやジェフ・ケントに次ぐ記録を打ち立てた。

この年もオールスターに選ばれ、8月28日には2年ぶりに30本塁打を超える。シーズン通算では打率.298、39本塁打、103打点と復活をアピールした。

スプリングトレーニングでは3月27日のカクタスリーグ戦で3本塁打7打点の派手な活躍を見せ、開幕後も4月26日のアストロズ戦で満塁弾を含む6打点で通算1000打点を達成するなど序盤から波に乗った。

シーズン全体では33二塁打、39本塁打、107得点とすべての主要部門でキャリアトップクラスの数字を残し、二塁手として史上最多の40本塁打にあと1本と迫った。

2017年 – オールスターMVPと300号

2017年は5月に右大腿四頭筋を痛めて短期間の故障者リスト入りしたものの、オールスター戦では10回表に決勝本塁打を放ってMVPに選ばれるなど輝きを見せる。

9月21日には通算300本塁打に到達し、二塁手では歴代3人目の快挙となった。シーズンでは150試合に出場して打率.280、23本塁打、97打点を記録し、故障にもかかわらず安定感あるパフォーマンスを維持した。

2018年 – ケガと薬物違反

2018年4月には通算302本塁打を放ち、4月29日にはマリナーズでの100号本塁打を記録する。しかし5月13日の試合で右手を骨折した直後、尿検査で利尿剤フロセミド(Lasix)の陽性反応が出たことが公表され、翌15日にMLBから80試合の出場停止を言い渡される。

フロセミドは他の薬物の尿中濃度を薄める“マスキング剤”として使用されるため禁止されており、カノは血圧治療薬として服用したと主張しましたが認められなかった。

この件では個人トレーナーがバイオジェネシス・スキャンダルに関与した過去があることも報じられ、ファンから厳しい目を向けられる。

カノは処分期間中に二塁手の座をディー・ゴードンに譲り、8月14日に一塁手として復帰すると打率.317、6本塁打、22打点と限られた試合数ながら存在感を示した。シーズン後半の活躍にも関わらず、マリナーズは年俸負担を軽減するためオフにカノをメッツへトレードしている。

2019年 – メッツ移籍と不振

2018年オフ、カノは救援投手エドウィン・ディアスらとの大型トレードでニューヨーク・メッツへ移籍する。

開幕戦ではサイヤング賞投手マックス・シャーザーから本塁打を放つが、その後はケガや打撃不振に苦しみ、前半戦終了時点でメディアから「大失敗」と酷評される。

しかし7月23日のパドレス戦でキャリア初の1試合3本塁打を記録するなど後半は持ち直し、最終的に打率.256、13本塁打、39打点だった。

2020年 – 好成績と長期出場停止

短縮シーズンとなった2020年は打率.316、出塁率.352、長打率.544とチームでもトップクラスの打撃成績を残し、wRC+は141に達しあ。

しかしシーズン終了後、アナボリックステロイドのスタノゾロールに陽性反応を示したことが公表される。

これは2018年のフロセミド違反に続く2度目の薬物違反であり、MLBは規定に従って2021年シーズン162試合の出場停止処分を科した。

この違反によりカノは約2400万ドルの年俸を丸ごと失うことになり、キャリアへのダメージは大きなものとなった。

2022年 – 渡り歩いた3球団

出場停止明けの2022年、メッツに復帰したものの打率.195と低迷し、5月2日に戦力外通告を受けてチームを去った。

5月13日にはサンディエゴ・パドレスとメジャー契約を結ぶが12試合で打率.094と結果を残せず6月2日に解雇される。

その後再契約からマイナー経由で再昇格するも、7月10日にアトランタ・ブレーブスへ金銭トレードされ、9試合で打率.154に終わり8月1日に再び戦力外となった。この年は3球団合わせて33試合に出場し、打率.150とキャリア最低の数字に終わっている。

2023年 – 新リーグへの参画

2023年9月、カノはドバイを拠点とする新興リーグ「ベースボール・ユナイテッド」のオーナーグループに参加し、10月のドラフトではドバイ・ウルブズに指名された。

リーグのオールスターショーケースではリードオフマンとして2試合合計2安打2二塁打を記録し、新しい舞台でも存在感を見せる。

ビジネス面でも新リーグへの投資や運営に携わるなど、選手としてだけでなく経営者としても活動の幅を広げている。

2024年 – メキシコリーグで復活

2024年3月1日、カノはメキシコリーグの名門ディアブロス・ロホス・デル・メヒコと契約を結ぶ。

シーズンでは打率.431、14本塁打、77打点という驚異的な成績を残して首位打者を獲得し、チームをセリエ・デル・レイ制覇に導く。

長距離砲というよりは巧打者として、高打率と長打を兼ね備えたバッティングでメキシコの投手陣を攻略した。

2025年 – 連覇と4000本安打

2025年1月15日、ディアブロス・ロホスと再契約し、カノはメキシコリーグ2年目を迎える。4月のベースボール・チャンピオンズリーグ・アメリカズでは全勝優勝に貢献し、大会MVPに選ばれた。

リーグ戦でも打率.372、14本塁打、86打点と引き続き高水準で、セリエ・デル・レイ2連覇を達成する。

9月にはプロ通算4000本安打を達成し、メキシコのファンから大歓声を浴びた。

2026年 – 史上初の三連覇を目指して

2026年4月1日、ディアブロス・ロホスはカノと3年目の契約を結んだと発表。球団はこの発表の中で「カノが加入して以来、2年連続でリーグ制覇とベースボール・チャンピオンズリーグ優勝を果たした。彼の経験とリーダーシップがチームの中心にあり、2026年は史上初のリーグ三連覇を狙う」とコメントしている。

カノ自身も「メキシコは第二の故郷だ。ファンの前でまたプレーできることにワクワクしている」と語り、優勝への意欲を示した。

このように、メジャーリーグでの輝かしいキャリアを経た後も、カノは40代になってなお各国リーグでプレーし続けている。彼の野球への情熱と技術は衰えることなく、多くの若手選手の手本になっている。

あとがき

ロビンソン・カノの人生は、天性の才能と努力が結実した成功の物語であると同時に、度重なる薬物違反などの失敗も含んだ複雑なものであった。

少年時代に父親から野球の基礎を学び、マイナーリーグで着実に成長した彼は、ヤンキースでスター選手となりワールドシリーズ制覇を経験した。

その後は大型契約で移籍したマリナーズやメッツでも輝きを放ったが、2018年と2020年の薬物違反により長期出場停止処分を受け、一時はキャリアの終焉かとも思われた。

しかし、諦めることなく海外リーグで再起を図り、メキシコリーグでは首位打者とチャンピオンに輝いている。

一方、グラウンドの外では子どもたちへの支援や社会貢献活動に熱心で、病院や学校への寄付を続けている。彼のこうした行動は、単に野球が上手いだけでなく、人間として尊敬できる部分があることを示している。

メジャーリーグ時代の輝き、薬物違反による挫折、海外リーグでの復活、そして社会貢献という多面的な人生を歩むロビンソン・カノ。

現役引退が近づいていると言われていますが、最後まで野球への情熱を持ち続けながら、次の世代へと経験を伝えていく姿に期待したいところだ。

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